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区指定文化財
区指定文化財についてのご案内です
更新日
2023年3月17日
区指定史跡 代々木八幡遺跡
代々木5-1-1 代々木八幡宮
標高約32mにある代々木八幡宮の境内を昭和25年に調査したところ、多数の遺物とともに住居跡とその中に掘られた柱跡が発見されました。
同時に出土した加曾利E式土器から、この住居には、約4500年前の人が住んでいたと推測されます。
現在、この住居跡には、当時の古代住居を復原したものが展示されています。
区指定史跡 猿楽古代住居跡
猿楽町12
昭和52年に発掘調査を行ったところ、住居跡や土器の破片が発掘されました。土器の模様から、 約2千年前の弥生時代後期のものと 推定されます。
いくつか発見された住居跡の中には、他の地域で見られる住居跡よりも大型で珍しいものもありました。
区指定史跡 猿楽塚
猿楽町29 ヒルサイドテラス内
2基の築山が並んでおり、いずれも6~7世紀の、死者を埋葬した円墳といわれています。
このうち高さ5mほどの大型のものを昔から 「猿楽塚」と呼んでいました。
この塚が、現在の町名の起源となっています。
区指定天然記念物 大銀杏
広尾4-1-22 日赤医療センター内
大銀杏のある日赤医療センターの敷地は、延宝年間(1673)から佐倉藩堀田家の下屋敷でしたが、 この銀杏はそれ以前からここにあったと考えられています。
推定樹齢は約500年、目通り(目の高さの幹周)は約4.7mあり、区内最古の木と考えられています。
区指定有形文化財 紙本著色氷川大明神并宝泉寺縁起絵(非公開)
東2-5-6 渋谷氷川神社
渋谷氷川神社に伝えられてきたこの絵巻は、かつての下渋谷村・下豊沢村の鎮守であった氷川神社と、 その別当寺であった宝泉寺の縁起を記したものです。
慶長10年(1605)9月賢者円謹誌と書かれてあり、都内の史料としても最古に属し、また、 その絵は桃山美術の影響が見られます。
氷川神社は区内でも最古に属するといわれており、地域史料としても価値のあるものです。
区指定有形文化財 金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下
渋谷3-5-12 金王八幡宮
金王八幡宮社記によると、この八幡宮は、渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092) に創建したといわれています。
現在の社殿は、徳川家光が3代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに慶長17年(1612) に寄進したといわれています。
その後たびたび修理されましたが、江戸時代前期から中期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
渡り廊下は、大正14年(1925)までに完成しており、宮大工の手にかかる優れた意匠を持ち、 社殿に附属してその価値をいっそう高める建物として不可欠です。
区指定有形文化財 茶室 花雲(非公開)
代々木3-26-1 諦聴寺
入母屋造(いりもやづくり)銅板葺(どうばんぶき)、三畳台目(さんじょうだいめ)、 下座床(げざどこ)、水屋及び腰掛待合が付設されています。花雲は昭和初期につくられた茶室と伝わり、 近代の茶の湯文化を牽引した益田孝(鈍翁)と数寄屋師・木村清兵衛(三代目)が共同で作り出したものです。 建築以来、3度の移築を経て現在地に落ち着くこととなりました。 花雲は大阪府の水無瀬神宮に所在する茶室燈心亭の写しで、 歴史的な名席を独自に解釈しつつ新たな茶室を作り出すという近代における和風建築の展開を物語る上でも貴重な 茶室です。
区登録有形文化財 五輪塔
幡ヶ谷2-36-1 清岸寺
4基の五輪塔は、その様式から中世(室町時代)に作成されたものと考えられ ます。本五輪塔の伝来については、廃仏毀釈によって廃寺となった法界寺の頃 から当地にあったのか、それ以後に参宮橋から引き移ってきた、清岸寺が持参 したものなのかはっきりとしません。五輪塔の材質は、安山岩と砂岩がそれぞ れ2基ずつとなっています。
いずれにしろ、中世にまで遡る五輪塔は、この4基しか確認されておらず、 中世資料の少ない当区においては貴重な文化財であります。
区指定天然記念物 金王桜
渋谷3-5-12 金王八幡宮内
この桜は、長州緋桜とみられ、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられてい ました。
高さは約6m、目通り(目の高さの幹周)約1.25mです。
初代の桜は、源頼朝が父義朝に仕えた渋谷金王丸をしのび、鎌倉亀ケ谷の桜を移植したという伝説もあります。
希少価値をもつ桜のため、代々実生によって純系種が植え継がれています。
区指定史跡 黒田長政の墓
広尾5-1-21 祥雲寺
豊臣秀吉の天下統一に貢献した福岡藩主黒田長政は、京都紫野大徳寺の龍岳和尚に深く帰依していたので、元和9年(1623)に長政が 没すると、嫡子忠之は龍岳を開山として、赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺を建立しました。
寛文6年(1666)には麻布台に移り、瑞泉 山祥雲寺と号を改め、 寛文8年(1668)の江戸大火により現在の地に移りました。
長政の墓は、墓標形として建てられた雄大なものです。
区指定有形文化財 東福寺の梵鐘
渋谷3-5-8 東福寺
宝永元年(1704)の銘があるこの梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれています。
その一部に「後冷泉帝のとき、 渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。
渋谷郷はその一なり」とあることから、渋谷の地を谷盛の庄とも呼んでいたこと がわかります。
区指定有形文化財『御江戸図説集覧』等版木
東2-9-1 (社)温故学会
『御江戸図説集覧』をはじめとする、江戸図、刀剣、絵画、易学、漢字学等に関するもの20点の版木1,094枚です、 各分野の第一人者 が、江戸・明治・大正時代に編さんし、当代一流の版木師が彫刻したものです。
版木はすべて木質の硬い桜木で、両面に文字や絵図が 彫り込まれています。
区指定有形文化財 香林院茶室
広尾5-1-2 香林院
香林院(こうりんいん)茶室は、仰木魯堂(おおぎ ろどう)が大正8年(1919)に自らの茶室として設計施工したものです。
魯堂は近代の茶室建築に深く関わった人物で、近代財界人で茶の盛行を主導した三井の大番頭益田鈍翁(孝)、高橋箒庵、原三渓らの 動きに深く関わり、茶人として高い評価を受けていました。
香林院のこのような茶室は、かつて都心の各所にあった財界人の邸宅内部にありましたが、戦災でその多くが焼失し、また戦後の再開発によっても多くが取り壊されました。
都心の原所在地に残されたものとしては、香林院茶室が唯一のものといえます。明治、大正、昭和初期における、財界人の茶の盛行の場として、またその建築を担った人物の作品として、極めて貴重な茶室です。
区指定有形文化財 歴代頂相画 12幅 附 絶山宗信像(模本)
広尾5-1-21 香林院
「頂相(ちんそう)」は高僧の頂(頭部)の相貌という意味で、一般には禅僧の肖像を指して用いられています。
中国僧の頂相が伝来した日本では、鎌倉時代末期から室町時代にかけて臨済宗系の寺院で作成され盛行しました。
臨済宗大徳寺派に属する香林院の頂相画は、近世の作例ながら、開山の絶山宗信以降、12世の洞明宗仙まで18世紀初頭から20世 紀半ばまでの像が揃い注目されます。
香林院本は、絶山宗信、天山宗教、清澗宗瑾、海雲義岫を除いて寿像であることが特筆され、像主の容貌を忠実に伝えている可能性が 高いものです。
しかも、實翁宗著の模本を除き、ほぼすべての作例の制作年代が、画賛の年紀などから判明します。
区指定有形文化財 歴代頂相画 15幅 附 子順和尚像(非公開)
広尾5-1-21 霊泉院
香林院の作例と同様、禅僧の肖像である頂相の一群です。
霊泉院の頂相画は、開山の徳峯宗古以降、14世の廉洲宗貞までのすべてが 揃っています。
このうち、開山の頂相が二幅あり、貞享3年(1686)制作の像が壮年の姿を描き、宝永2年(1705)制作の像が晩年の姿を表しているのは興味深いものです。
霊泉院本も寿像が多く、龍國宗湫、実詣宗喩、誠翁義万、大順宗恭、廉洲宗貞のほかは寿像であることが明らかで、像主の容貌を忠実に伝えているとみられます。
区指定有形文化財 木造十一面観音立像(非公開)
広尾5-1-21 霊泉院
本像は、左手をおなかの前でまげて蓮華茎をとり、右手を蓮華にそえる聖観音の姿であり、本尊聖観音像として伝来しています。
しかし、頭頂部に残る数か所の埋木が頭上面を挿し込んでいた痕跡であることが確かめられ、当初は十一面観音像であったことがわかります。
本像は、はつらつとした当代の新風を追うよりも、保守的な平安期の作風を踏襲する鎌倉末期の作例とみられます。お顔には後世の彫り直しが認められるほか、両手の肘から先や足先など部分的に後補されていますが、根幹部は当初のままを伝えています。
区指定有形文化財 木造聖観音坐像(非公開)
広尾5-1-21 東江寺
本像は、胸前で蓮華をとる左手と、これに添えられるように右手を構える聖観音の典型的な姿を表しています。
なだらかに結い上げた 垂髻やゆったりとした姿勢には、平安後期の趣きがありますが、玉眼をはめた理知的なお顔や体部の肉どりの部厚さなどには、対象を明確にとらえようとする鎌倉時代の作風が明らかであり、慶派仏師にならう特色が認められます。
区指定有形文化財 木造十一面観音立像(非公開)
西原3-31-1 雲照寺
本像は、頭上に頂上仏面ほかの十面と化仏(けぶつ)立像を戴く十一面観音立像で、左手で未開蓮(みかいれん)を挿した水瓶(すいびょう)を執り、 右手は下に垂らし指を伸ばす姿をしています。
像本体は、頭体の根幹部から両足にいたるまで針葉樹の一材からつくられ、内部を刳り抜かない 一木造という古来の技法によっています。
現状は、頭上面のすべてがあとの時代に補われたものにかわっていますが、お像の根幹部がよく残るのは幸いであり、 その痕跡から、造られた当初から十一面(現状一面欠損)を戴く観音像であったことは明らかです。
都風の洗練された表現を、巧みに活かした平安時代後期のお像であり、このような古像が、当区に存在する稀有な例であります。
区指定有形文化財 木造阿弥陀如来立像(非公開)
東2-6-16 寶泉寺
本像は当寺の本尊で、ほぼ直立する端正なつくりの阿弥陀如来立像として伝来しています。
お像は針葉樹の一材からつくられていますが、耳の後ろを通る線で前後に割り、その内部を刳り抜いた割矧造(わりはぎつくり)という手法が用いられています。
本像は鎌倉時代後期につくられたと考えられますが、当時流行した仏像の眼に水晶をはめ込んだ玉眼(ぎょくがん)という技法は用いずに彫りあげた彫眼(ちょうがん)とし、螺髪(らほつ)も彫り出してなだらかに整えるなど、洗練された表現が際立っています。
お顔にわずかな整形を加えていますが、当初の像容を損なわずに伝存した本像は、区内に伝わる秀れた鎌倉時代の作例として重要なものです。
区指定有形文化財 銅板日遙墓誌
千駄ヶ谷2-24-1 仙寿院
墓誌は、死者の名前や生前の地位・経歴などを記し、時には哀悼の文なども付けてお墓に埋めたものです。
仙寿院は、法雲山東漸寺仙寿院と称し、山梨県南巨摩郡身延町に所在する日蓮宗本遠寺の末です。
墓誌銘には、仙寿院の開山である日遙上人(号一源院、延宝5年〈1677〉12月7日に遷化)の生涯と事績を、表裏に32行、約800字にわたって刻んでいます。
昭和38年に、道路拡幅工事で墓地の改葬を行った際に、開山墓石下より発見されました。
区指定有形文化財 阿弥陀石棺仏
東3-10-13 福昌寺
石棺仏とは、古墳時代の石棺を転用して、その内側に仏像を彫り込んで、庶民が礼拝の対象としたものです。
本石棺仏は、 家型石棺の蓋(ふた)を利用し、その内側に阿弥陀如来立像(りゅうぞう)が蓮台の上にあらわされ、彫りの浅い舟形光背(こうはい) を備える形で刻まれています。
阿弥陀如来立像が彫られた時期は、その像容やほかの作例の年紀から南北朝時代と考えられます。
本石棺蓋の材質は、兵庫県高砂市・加西市付近を産地とする播磨竜山石(たつやまいし)系と考えられ、そのなかでも加西系に近い高室石(たかむろいし)と想定されます。
伝来の詳細については不明ですが、和歌山県那賀(なが)郡から運ばれて来たとされるこの阿弥陀石棺仏は、昭和25年に造園業の東光園が入手して、福昌寺に寄進しました。
現存する阿弥陀如来が彫られた石棺仏の多くが坐像であり、本石棺仏のような立像形は珍しいようです。
区指定有形文化財 阿弥陀一尊図像板碑
東4-9-1 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館保管
本図像板碑(ずぞういたび)の材質は、秩父産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)です。
下部を欠損していますが、中心部には、 日月や天蓋(てんがい)、阿弥陀如来立像が刻まれ「月待(つきまち)供養」の文字がみえます。
一番下の中央に紀年銘と思しき「文」と、その左右には偈(げ)もしくは供養者名と考えられる文字が彫られていたことが痕跡から窺えます。
板碑の形態や現存する図像板碑から考察すると15世紀後半頃に作成されたものと考えられることから、 「文」は文正(ぶんしょう)か、文明(ぶんめい)、あるいは文亀(ぶんき)という年号が想定され、本図像板碑が室町時代に制作されたものと推定できます。
当区内に存在する板碑のなかで、図像を有するのは本図像板碑のみであり、 阿弥陀一尊と月待供養が刻まれた図像板碑は関東地方に11点しか現存しない珍しいものです。
区指定有形文化財 木造聖徳太子立像(孝養像)(非公開)
代々木3-26-1 諦聴寺
聖徳太子が十六歳の頃の姿を表した孝養像です。鎌倉時代以降に盛んに造立されるようになりますが、 本像はヒノキの一木造で、簡素な彫り口や衣文の彫法から南北朝から室町時代の頃の作例と考えられます。
区指定有形文化財 木造薬師如来坐像 (非公開)
渋谷3-5-8 東福寺
左手に薬壺を載せた薬師如来坐像です。針葉樹材を用いた寄木造で、平安時代後期に流行した定朝様の作風を 示しています。角張った顔立ちや身体の表現にはやや硬いところがありますので、鎌倉時代初期の作例と考えられます。
区指定有形文化財 銅造菩薩立像(善光寺式阿弥陀如来脇侍像) (非公開)
渋谷3-5-8 東福寺
お姿から善光寺式阿弥陀如来像の脇侍像にあたると考えられます。端正な顔立ちからは、鎌倉時代後期の表現を 窺うことができます。銅製で頭から足先までが一体のように見えますが、火を被ったあとのある頭部とその痕跡がない体部は別々に造られたと思われます。
区指定有形文化財 絹本著色仏涅槃図(非公開)
西原3-31-1 雲照寺
涅槃図は釈迦入滅(にゅうめつ)の場面を描いたもので、涅槃会(ねはんえ)の際に用いられます。 本図には、釈迦のまわりに仏弟子・天部・俗人とともに多くの動物達が描かれています。これらの傾向から、 鎌倉時代以降に描かれた涅槃図ということがわかります。人物の顔の描写や釈迦を比較的大きく描く手法から、 本図の制作は南北朝時代に遡ると考えられます。本図は区内にあって14世紀に遡る涅槃図の最古例であり、 類品中出色の出来栄えを示しています。
区指定有形文化財 木造観音菩薩坐像及び達磨大師坐像・伽藍神倚像(非公開)
東4-10-33 吸江寺
観音菩薩像は、鎌倉時代末以降の院派仏師(いんぱぶっし)の作例と思われますが、衣文(えもん)の構成などが簡略になり形式化を進めていることから、 室町時代も15世紀の作とみられます。達磨大師像は、玉眼(ぎょくがん)の黒目を金色でくくるのが特徴的であります。 本像も、院派仏師の作風を見せており、観音菩薩像とほぼ同時期の作とみてよいと思われます。 伽藍神像は禅宗寺院に安置された伽藍の守護神で、中国宋代の道教神(どうきょうしん)を祀る形式に基づいています。 手をかざして遠くを見やる姿は、近世に入り多くなる「大権修理菩薩像(だいげんしゅりぼさつぞう)」と呼ばれる例で、 達磨大師像と対で安置されます。その様式から、安土桃山時代から江戸時代初期の作例とみられます。
区指定有形文化財 壽稲荷本殿 附石造手水鉢(明和八年在銘)(非公開)
渋谷2-12-15 社団法人 日本薬学会
建築は、一間社(いっけんしゃ)。入母屋造(いりもやづくり)。檜皮葺(ひわだぶき)。向拝一間(こうはいいっけん)。唐破風(からはふ)付。 壽稲荷本殿は、江戸時代に信州高島藩諏訪氏下屋敷の屋敷神(やしきがみ)として勧請(かんじょう)されたと考えられ、明治時代に徳島藩士長井氏がこの屋敷地を購入し、 昭和37年に土地とともに日本薬学会に寄贈しました。小規模な建築ながら随所に精巧な彩色(さいしき)が施されるのが本建築の特徴です。 建立当初の彩色を留める身舎(もや)柱、台輪(だいわ)、妻虹梁(つまこうりょう)、向拝(こうはい)正面の軒桁(のきげた)ならびに飾金具(かざりかなぐ)には、 徳川家の家紋である三葉葵紋(みつばあおいもん)がみられ、17世紀に遡る建築として希少です。
区指定有形文化財 清岸寺本堂
幡ヶ谷2-36-1 清岸寺 様式 単層切妻造、瓦葺き
清岸寺本堂は、明治32年頃に千葉県岩井の今村氏が建てたもので、岩井御殿と呼ばれていました。 昭和20年5月の空襲により本堂を失った清岸寺は、岩井御殿を譲り受け、昭和26年に移築し、一部の材を入れ替えて寺院の本堂としたものです。 住宅を仏堂に転用し、かつ明治期における高級住宅の様態をうかがえる事例として、貴重な価値を有しています。
区指定有形文化財 木造聖観音菩薩立像(人肌観音)(非公開)
神宮前6-25-12 長泉寺
この聖観音菩薩立像は、金王丸伝説と結びついて「人肌観音」とも呼ばれていたと伝えられています。 針葉樹材を用いた一木造りの像は、内部をくり抜かない手法で造像されています。 切れ長な目を伏せた生彩ある表情などから、鎌倉時代前期の作と考えられます。中世に遡る観音像として、高い価値を有します。
区指定有形文化財 銅造千手観音菩薩立像(非公開)
神宮前6-25-12 長泉寺
この千手観音菩薩立像は、清水寺式と呼ばれる作例で、頭上に高く掲げた両手の上に化仏坐像を安置します。 背面の銘文から、享保4年(1719)10月に鋳造されたことが明らかとなります。 銘文から多くの寄進者によって造立された本像は、江戸中期の歴史的、信仰史的な価値を有する大作です。
区指定有形文化財 木造不動明王立像(非公開)
渋谷3-5-8 東福寺
この不動明王立像は、かつて東福寺に所在した護摩堂に安置されていたものです。左目をすがめ、牙を上下に出し唇を歪める表情は、天台系の特徴を表し、頭の上に蓮台を載せるのは真言系の特徴を表すことから、両様の要素を備えた興味深い作です。針葉樹材の一木から彫成された本像は、その姿勢から、鎌倉時代の作と考えられます。区内に所在する不動明王像としては、最古例に属する優品で、高い価値を有します。
区指定有形文化財 絹本著色釈迦三尊像(非公開)
西原3-31-1 雲照寺
この釈迦三尊像は、中央に釈迦坐像、左脇侍に文殊菩薩、右脇侍に弥勒菩薩が比丘尼形で描かれています。作者は、土佐派の土佐光祐で、本画幅の裏面の墨書銘により、宝永7年(1710)8月に神鳳律寺(現大阪府堺市)に寄附されたことが明らかとなります。銘には、快圓和尚を筆頭に71名が連名するなど、多くの寄進者によって制作された本画幅は、大和絵の本流を継承する土佐派の面目が際立った大作です。
区指定有形文化財 絹本著色春日鹿曼荼羅図(非公開)
西原3-31-1 雲照寺
この曼荼羅図は、奈良を中心に作成されたもので、神体山の御蓋山(みかさやま、三笠山)とその後方に横たわる春日の山並みを背景に、春日の神々(仏像)が山麓へ来臨する様子を大鹿と榊、そして神々を描いた神鏡などで象徴的かつ写実的に表現しています。曼荼羅図が制作されたのは、遅くても14世紀にまでさかのぼるとみられ、鹿を中心に描いた典型的な曼荼羅図としても優品であり、極めて貴重な作例であります。
区指定有形民俗文化財 代々木八幡縁起絵
代々木5-1-1 代々木八幡宮
代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣の家来である荒井外記智明は、頼家が伊豆で殺害されたあとに名前を改めて代々木の地 に引きこもり、建暦2年(1212)に夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので、源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、 小祠を建てて代々木八幡宮を創建したといわれています。
この絵馬は、その経過を表現したもので、天保12年(1841)に奉納された ものです。
区指定有形民俗文化財 伝 神功皇后之図
代々木5-1-1 代々木八幡宮
神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子、従臣の武内宿禰が描かれています。
一般に見られる作例と異なって背景 の表現は少なく、人物を主体とした構成と力強く勢いのある作風は、その色彩とともに明らかに芝居絵と共通しています。
天保11年(1840)に奉納されています。
区指定有形民俗文化財 大江山鬼退治之図(その1・その2)
渋谷3-5-12 金王八幡宮
延宝3年(1675)に金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した『御伽草子』におさめられている「大江山の酒呑童子」に基づく絵馬です。
この鬼退治物語を描いた絵馬は各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面(その1、写真左)」と「鬼退治場面(その2、写真右)」の2枚の絵に表現したものは、作例として珍しいものです。
区指定有形民俗文化財 算額(嘉永3年・安政6年・元治元年)
渋谷3-5-12 金王八幡宮
古代中国から日本に伝えられて、江戸時代に独自の発展を遂げた和算の記録で、数学の研究発表や学問成就の祈願のために、神社に奉納されました。
多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすいものです。
算学3点(写真左より嘉永3年、安政6年、元治元年)は、宮益町の在住者により奉納されたものですが、安政6年(1859)奉納のものは四国の伊予西条藩の武士によるものです。
また、元治元年(1864)奉納のものは扇形をしており、大変珍しいものです。
区指定有形民俗文化財 庚申塔・廿三夜塔・道しるべ
猿楽町12先 猿楽古代住居公園内
これらの石造物は、江戸時代中期以降に建立されたものです。銘文には、中渋谷村(現渋谷区)の旧家である一族の名前が確認できることから、建立当初より中渋谷村に建てられていたことがわかります。文献資料の少ない渋谷区にとっては、大変貴重な文化財であります。
区指定無形民俗文化財 代々木囃子
[保存団体]代々木囃子保存会
[伝承地]代々木5-1-1 代々木八幡宮
代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡で行われていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといわれています。
明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の際に一時的に中断しました。昭和期も継続されますが、第二次世界大戦が始まって からは中断を余儀なくされました。戦後の昭和21年に、代々木八幡の氏子らが先頭に立って「代々木囃子保存会」を結成し、囃子を復興させました。
その保存活動は現在に至っています。
区指定無形民俗文化財 代々木もちつき唄
[保存団体]代々木もちつき唄保存会
[伝承地]代々木5-1-1 代々木八幡宮
餅つきは、代々木村の時代から初台、代々木、西原、上原一帯で行われており、「もちつき唄」は餅をつく前段のこねる作業 で唄われていました。
昭和30年を過ぎる頃から、農家の減少や農地の宅地化、商店からの餅の購入などの理由で、次第に餅つき 自体が行われなくなりました。
昭和43年には、「もちつき唄」が忘れさられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、「代々木もちつき唄保存会」 が結成されました。
毎年、代々木八幡宮の節分会で参詣者に配られる餅は、「代々木もちつき唄保存会」がついています。
お問い合わせ
文化振興課文化財主査
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FAX | 03-3486-2793 |
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