渋谷区勢概要2024
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343けんぽんちゃくしょくぶつねはんずてんかん木造聖徳太子立像(孝養像)木造聖徳太子立像(孝養像)所在地 代々木三丁目26-1 所在地 代々木三丁目26-1 浄土真宗・聖徳山 諦聴寺(非公開)浄土真宗・聖徳山 諦聴寺(非公開) 本像は、聖徳太子が16歳の頃の姿を表現したという孝養像と本像は、聖徳太子が16歳の頃の姿を表現したという孝養像呼ばれるものです。木彫による太子孝養像は、鎌倉時代以降各と呼ばれるものです。木彫による太子孝養像は、鎌倉時代以うちりを施さない降各地で盛んに造立されました。本像は、内地に盛んに造立されました。本像は、内りを施さないヒノキヒノキの一木造で、その簡素な彫り口から南北朝時代頃に造の一木造で、その簡素な彫り口から南北朝時代頃に造立された立されたものと思われます。太子の父用明天皇の病気平穏をものと思われます。太子の父用明天皇の病気平癒を祈るとされ祈るとされるその姿は、中世になると浄土真宗の太子信仰とるその姿は、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫結びつき、彫像や絵像が造られました。本像は渋谷区内の真像や絵が造られました。本像は渋谷区内の真宗寺院に伝わる聖宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならず信仰史ののみならず信仰史の上からも貴重であります。上からも貴重であります。銅造菩薩立像(善光寺式阿弥陀如来脇侍像) 所在地 渋谷三丁目5-8 天台宗・渋谷山 東福寺(非公開) 本像は、宝冠と手の形から、いわゆる善光寺式阿弥陀如来像の脇侍と考えられますが、左右脇侍のいずれかにあたるかは判断できません。銅製で、鍍は認められません。頭部から足先まで一鋳製にみえますが、それぞれ頭部は鎌倉時代、体部は南北朝時代の制作であると判断されます。中世にさかのぼる脇る脇侍像が区北朝時代の制作であると判断されます。中世に遡のんかんや内に伝存する希有な例であり、「矢」であるとの確証は観音」であると侍像が区内に伝存する希有な例であり、「矢ないまでも信仰を集めていた本像は、区とのゆかりも深いものの確証はないまでも信仰を集めていた本像は、区とのゆかりであり、資料的価値も高いといえます。も深いものであり、資料的価値も高いといえます。〈区指定有形文化財 平成20年2月28日指定〉〈区指定有形文化財 平成20年2月28日指定〉346〈区指定有形文化財 平成20年2月28日指定〉うちきんさかのぼのんひろいひろいかん刳刳ぐぐ朝様箔拾金拾観音とやしぶ部視ふ木造薬師如来坐像木造薬師如来坐像所在地 渋谷三丁目5-8 所在地 東三丁目5-8 天台宗・渋谷山 東福寺(非公開)天台宗・渋谷山 東福寺(非公開) 本像は、左手に薬壺を載せて坐る薬師如来で、平安時代後期本像は、左手に薬壺を載せて坐る薬師如来で、平安時代後期に一世を風靡した定じょうちょう朝様ようの作風がみられます。構造は針葉樹材に一世を風靡した定の作風がみられます。構造は針葉樹材を用いた寄木造で、彫眼とし、漆箔仕上げとしています。おを用いた寄木造で、彫眼とし、漆仕上げとしています。お顔や身体のつくりから本像の制作は12世紀末から13世紀初め顔や身体のつくりから本像の制作は12世紀末から13世紀初めと考えられます。本像は、通例の薬師如来とは異なり、右足を(鎌倉時代)と考えられます。本像は通例の薬師如来とは異な上にして坐るという特徴をもちますが、区内屈指の優作であるり、右足を上にして坐るという特徴をもちますが、区内屈指のと考えられます。優作であると考えられます。絹本著色仏涅槃図 所在地 西原三丁目31-1 真言宗・代々木山 雲照寺(非公開) 本図は釈迦が頭を向かって左側において手枕をし、顔をこち本図は、釈迦が頭を向かって左側において手枕をし、顔をこちら側に向けて横たわっています。その周りには、仏弟子や菩薩、天や俗人、動物たちの嘆き悲しむ姿が描かれています。これは、平安時代の形式とは異なり、鎌倉時代以降に一般的になる第2形式で、本図はこれに属します。人物の描写などに粗いところも見受けられますが、釈迦を比較的大きく描き、あまり俯本図の制作は南北朝時代にさか瞰るのぼると考えられます。と考えられます。 伝来については明らかではありませんが、本図は区内にあって最古の例に属すると思われます。しない構図も古様です。本図の制作は南北朝時代に遡〈区指定有形文化財 平成20年2月28日指定〉〈区指定有形文化財 平成20年2月28日指定〉〈区指定有形文化財 平成21年2月26日指定〉ようじょうちょうしっぱくあらさかのぼ

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