●原始・古代12渋谷区には、原始・古代の遺跡が70数カ所発見されているが、現在その姿をとどめているのは数カ所である。原始時代の渋谷は、台地部分に海が大きく入り込んだ時期もあり、縄文時代や続く弥生時代を通して、人は主に丘の上で生活を営んでいた。古墳時代は、盛んに古墳が築造され、渋谷でも円墳と横穴墓が発見されている。円墳は台地上にあり、小規模なものが大部分である。横穴墓は比較的傾斜の強い台地につくられて、遺物は土製小玉等が発見されている。奈良・平安時代の渋谷を説明する史料はまったくない。平安時代末期の武家勃興のころは、渋谷氏(渋谷金王丸常光)を中心とする源氏諸将の伝説が、社寺や地名として残っている。●中世武蔵国には、源氏の家人として功があった武蔵武士が地方豪族として住んでいた。そのため、渋谷にもいくつかの鎌倉道が通じていて、中央の新しい文化の伝播や渋谷の開発も、この鎌倉道周辺から進んでいった。南北朝時代から室町時代にかけて、渋谷・原宿が次第に開拓され、後北条氏全盛時代には下渋谷・原宿・千駄ヶ谷・幡ヶ谷に村落が発達した。●近世江戸時代の渋谷は、下渋谷・原宿がいわゆる江戸御府内に属し、最も開けた存在であった。渋谷の丘の東側はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯や台地の西側には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家があった。渋谷の地域は、江戸市街の繁盛に伴い、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していた。●東京の確立行政区画としての渋谷区は、慶応4年政体書の発布から、明治11年郡区町村編制法により、南豊島郡に包括されるまでの間、武蔵県、武蔵県および東京府、小菅県および東京府、品川県および東京府、朱印外1区などと、甚だしい時は毎月変更されるほど改正が行われた。●近代行政への推移明治22年市制町村制の施行により、上渋谷・中渋谷・下渋谷の3村を中心に麻布・赤坂両区の一部を加えて渋谷村に、代々木・幡ヶ谷の両村で代々幡村に、千駄ヶ谷・原宿・穏田の3村で千駄ヶ谷村となった。明治29年南豊島郡は東多摩郡と合併、豊多摩郡が生まれ、渋谷3村もその下に引き継がれた。明治40年には、住宅地として発展し続けた千駄ヶ谷村が他に先駆けて町制を実施した。同42年には戸数8,954、人口35,191を擁して渋谷村が町制を実施、大正4年には代々幡村も町制を施行した。●渋谷区の成立昭和7年10月1日、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、東京市渋谷区が成立、他の79町村とともに大東京35区の一環として誕生した。その後、大東京市の自治権拡大に関する要求が盛んになったが、第2次世界大戦に突入、昭和18年戦時体制の強化に伴う都制の施行などで、区の自治は著しく狭められた。●渋谷区成立以後の移り変わり昭和21年10月、区条例・規則の制定権、区税・分担金の賦課徴収などが区に移され、区長や区議会議員は公選となった。昭和27年9月、地方自治法の改正により、特別区は都の内部的構成団体として、法令により制限された事務と、都条例に決められた事務を処理する“制限自治区”として規制されるに至った。このため、特別区の区長は、公選によらず、特別区の議会が都知事の同意を得て選任する“間接選出”方式となった。一方、商業が主要産業の渋谷区は、戦後の復興も渋谷駅から道玄坂を中心に始まった。昭和30年ごろを境にして高層ビルが続々建設され、商業地区に加えて業務地区といわれるオフィス街が生まれ副都心化が進んだ。昭和39年のオリンピック東京大会開催決定を契機として、道路の新設や拡張が相次ぎ、渋谷区の街並みは大きく変わった。また、地方自治法の改正により、福祉事務所などの事務が都から移管された。昭和50年4月、地方自治法の改正により、区長公選が24年ぶりに復活した。同時に保健所などの事務が、都から大幅に移管された。平成12年4月、特別区制度改革の実施により、区が基礎的自治体となった。同時に、清掃事業をはじめ、教育や町づくり等の事業が、都から移管された。現在も渋谷駅周辺や原宿界隈は、ファッション関係の店舗や百貨店などの新しいビルが次々につくられ、多くの人々が集まり、若者の街として賑わいを見せている。渋谷区のあゆみ
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