渋カツナビ2025
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り、遊びに来たりする空間ですが、土間から上がって家の中に入るには、ちょっとした登録をしてもらいます。末岡さんがこのスペースを開いたきっかけは、「こども食堂に来なくなった子たちはどこにいるんだろう?」という素朴な疑問だったそうです。こども食堂が居場所でなくなった10代の子たちの居場所はどこにあるんだろう? そういう疑問を持ちながらオープンしてみると、元気な子たちに交じって“行き場がなく、やることもない”子たちが過ごしに来ることもある。中には「学校には来られないけれど、ここには来られるかもしれないと思って」と、学校の先生に連に “居場所”は、自分の心を回復させられる場所れられて来る子もいるのだそうです。末岡さんは「まちのなかには、こんなに見えなかった子がいるんだ」と驚いたそう。末岡さんは自分の仕事をしながら声をかけたり、相手をしたりしていますが、基本は子どもたちが好きなように過ごせばいいと考えています。「ここはどういう場所?」と末岡さんに聞くと、「自己回復(セルフケア)の場所かな」と答えてくれました。おお。これはちょっと目からウロコ。確かだわ、と腑に落ちたのです。大阪市西成区にある「ココルーム(ゲストハウスとカフェと庭釜ヶ崎芸術大学)」では、元日雇い労働者でいまは生活保護を受けているおじさんたちによる詩や言葉、表現が生まれています。その表現は、たぶん日雇いの生活の中では得ることがなかったであろうもので、オーナーである詩人の上田假奈代さんとの関係の中で、自らの中から湧き出てきたものです。そうして自分の中から溢れ出てきたものにおじさんたちは癒やされているようにも思うし、喜びのひとつになっているのかもしれないと思うと、その関係のありように深く感動してしまうのです。ただ、そういうおじさんたちもだんだん亡くなり、まちには外国人も増え、居場所としてのココルームも少しずつ様変わりしているのだそうです。まちが変われば人も変わる。居場所の意味も変わっていくのでしょう。居場所はきっとひとつではないんだろうなと思います。橋の下も居場所かもしれない。同じような困りごとを抱えた人たちと話せる場所があるだけでも、それは大事な居場所かもしれない。一人ではないと思えるところが居場所かもしれない。だれかとなにかを創造できる場所が居場所かもしれない。未来を一緒に考えられる仲間がいるのが居場所かもしれない。“居場所はこうあるべきだ”なんていう正解はひとつもなくて、なんでもない日常の中にあるほんのちょっとした出来ごとから、それぞれの居場所が生まれていくのかもしれません。地域にはそんな可能性がまだまだたくさんある。その可能性を開くのがローカルアクションなんだと思うのです。    イタリアのアレッサンドリア市では、コロナ禍の際、大学にも図書館にも行けなくなった学生たちが、自分たちで居場所をつくった。いまもここは学生たちの居場所であり続けているフィンランドのヘルシンキ中央図書館は市民の居場所。本を借りたり勉強したりするだけでなく、バンド練習からものづくりまで、市民の“やりたい”をサポートする場として親しまれている。写真はエントランスに設置されているチェス台で楽しむ人たち29

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