としても、それが人と人をおおらかに結びつけているんだなといつも思います。大義名分的に言えば、恵まれない子どもたち・人たちを地域で支援する活動や美化活動、学習支援活動、地域活性化活動、福祉活動とか言われるかもしれないのですが、でもその風景は一方的に「やってあげる」ではなくて、「一緒にやっている」という気持ちによって成立しているところに、おおいに共感してしまうのです。そして「一緒にやる」からこそ、そこになにかの共通の場ができる。そこに“居場所”ができていくんだなと感じます。ローカルアクションは、どんなことであれ、自分と地域がかかわり合うことだから、地域でなにかアクションしようという人がいれば、参加したい人も協力したい人も出てくる。ローカルアクションを取材していると、そのアクションは地域の人間らしい関係の中で生まれたものなんだということが、そこにいる人たちの雰囲気ですぐにわかる。どんなに強面で気難しそうに見えても、イヤイヤやっている感じはしない。むしろ、一緒に活動していること、だれかの役に立っていること、活動の一部になっていることに、自負を持って楽しんで参加しているように見えるんです。もちろん、「ぱっと来た だけのヨソ者になにがわかる!」と思われる向きもあるかもしれませんが、その通り「でもね、土木ってそういう場所をつくることじゃ“場”自体もまた、自分との関係によって意味のあです。パッと見では奥底まではわかりません。でも、外から見ても、心地良い空気感は伝わってくるものだなあと思います。いつぞや知人が、「高校生の時、学校を抜けて橋の下で過ごすのが好きだったんだ」と言っていたのをいまでもよく覚えています。そう言う彼が見せてくれた写真は、川べりの高架下の風景で、どこにでもわりとよくある、とりたてて特徴のある風景でもありませんでした。彼は、「こういう場所を自分でもつくりたい」と思って、大学でどういう勉強をしたらいいのかといろいろ調べ、橋や道路をつくる土木工学を選んだのだそうです。なかった。 “橋の下”をつくることじゃなかった」。そして彼は気づいたんだそうです。「僕が過ごした橋の下は、僕が意味づけした空間だったんだ」と。たぶん彼は、だれも見向きもしない橋の下を “自分の場所”として親しんだのでしょう。公園や広場も、図書館などの施設も、自分との関係がなければ、まちは単に物理的な空間にすぎない。でも、そこになにか自分との関係が生まれれば、そこは意味のある場所になるんだ、と彼は言っているのだと思います。物理的な空間だけでなく、活動のる場所──たぶん、それが居場所というもの──それぞれが居場所に感じる意味は違う大阪市西成区にある「ココルーム」は一見、ふつうの喫茶店。奥に入るとまちのおじさんたちと一緒につくった庭や井戸がある。ここはおじさんたちがなにかを表現する場でもある27
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