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地名の由来

渋谷(しぶや)

いくつかの説がありますが、定説はありません。

  • 昔、この付近は入江であり、「塩谷の里」と呼ばれていました。
    その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
  • 平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。
    河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。
    この賊の名を渋谷権介盛国といいま した。
    そこで、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。
    このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったとする説。
  • この地を流れる川の水が、鉄分を多く含み、赤さび色の「シブ色」だったため「シブヤ川」と呼ばれていたとする説。
  • 渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったからとする説。

恵比寿(えびす)

明治20年、恵比寿4丁目にビール工場が誕生、2年後にできた製品は「ゑびすビール」と名づけられました。
その積み出し駅は、「恵比寿駅」と呼ばれました。

昭和3年には、駅の東側から港区白金に向うバス通りに沿って、恵比寿通り1・2丁目という町名がつきました。

戦後、区画整理や住居表示の際、「恵比寿」の名のつく町名が起こり、現在に至っています。

笹塚(ささづか)

江戸五街道のうち、唯一区内を通っていたのが甲州街道です。
その両側に塚(盛土)があり、その上に笹が生い茂っていたことから「笹塚」と呼ばれるようになったといいます。

この塚は、慶長9(1604)年に大久保長安により設けられたといいます。
また、天保14(1843)年の村差出明細帳には、「一里塚、村内字笹塚と申所往来左右に御座候」とあります。

大正5(1916)年刊行の『豊多摩郡誌』には、甲州街道の両側に塚があったが、すでに見られないと記してあります。

猿楽(さるがく)

鎌倉時代に、源頼朝がこの地で猿楽を催し、その道具を埋めたから、と言われています。

また、ここが風景の良い所だったので、昔、長者が宴を行い心のウサを晴らしたので「去ヶ苦」と言われ、後に「猿楽」と記すようになった、とも伝えられています。

いずれにしろ、猿楽塚という塚が地名の由来です。

松濤(しょうとう)

このあたりは、江戸時代、紀州徳川家の下屋敷でした。
明治初期、下屋敷の払い下げを受けた鍋島家では、ここに狭山茶を栽培し、「松濤園」という茶園を開きました。

「松濤」とは、茶の湯の釜のたぎる音を、松風と潮騒にたとえた雅号で、この銘の茶が生産されていました。
松濤の名が地名になったのは、昭和3年のことです。

鍋島松濤公園は、松濤園にあった湧水地の一画で、鍋島家から、当時の東京市に寄付されたものです。

神泉(しんせん)

江戸時代に刊行された『江戸砂子』によると、「此処に湧水あり、昔空鉢仙人此谷にて不老不死の薬を練りたる霊水なる故斬く名付しと言ふ」とあって、古くから霊泉として知られていました。

江戸時代から明治20年ころまで、弘法湯として栄え、後の円山を中心とする盛り場の発祥地となりました。

神南(じんなん)

昭和3年に、前耕地、豊沢、宇田川、深町の一部などが合併して「神南町」となりました。
この名は、明治神宮の南にあることから、「神南(かんなみ)」とつけられました。

第二次大戦前には、大部分が、旧代々木錬兵場に含まれました。
戦後からは、「じんなん」と発音されています。

千駄ヶ谷(せんだがや)

昔、このあたりは見渡す限りの茅野原だったそうです。
『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間(1624年以降)の頃、日々千駄の茅を刈り取ったことからこの名が起こり、正保年間(1644)に千駄萱村と書きました。

現在の「千駄ヶ谷」と書くようになったのは元禄年間(1688年以降)と伝えられています。

また、昔、太田道灌がこのあたりを巡見したとき、谷間に栽培されている稲が千駄もあったので、千駄ヶ谷と名づけたとも言われます。
駄とは、馬1頭が背にする荷物を数える単位です。
千駄とは、"それほどたくさん"という意味です。

代官山(だいかんやま)

「代官山」という地名は、江戸時代の小字名として登場しています。

代官の屋敷があったからとか、代官の持ち物の山林があったからとか言われています。
しかし、その名の由来を示す資料は残っていません。
もとは山林で、現在のようになったのは、関東大震災以降のことです。

道玄坂(どうげんざか)

江戸時代に作られた地誌類によると、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、大永4年渋谷氏滅亡後にこの坂に出没して、山賊野党の振る舞いをしたと伝えられています。

また、『天正日記』によると、道玄庵という寺の庵主が徳川家康に由緒書を出していることから、その寺の名をとってこの名がつけられたとのことです。

富ヶ谷(とみがや)

このあたりは、昔、「留貝」という地名で呼ばれていたそうです。

それは、富ヶ谷の低地、1丁目から代々木公園駅にかけて、地下10メートルほどのところが一面に貝の化石層だったからです。この「留貝」が「富ヶ谷」に変わったといわれています。

幡ヶ谷(はたがや)

後三年の役の後、源義家が上洛し、その途上、白旗を洗ったという「旗洗池」に由来します。
この池は、昭和38年に埋め立てられ、その旗は金王八幡宮の社宝となっています。

初台(はつだい)

京王新線初台駅から代々木八幡宮に向うなだらかな坂を、初台坂といいます。

徳川幕府が成立した頃、功臣に土井利勝がいました。
その弟である土井昌勝の妻は、2代将軍徳川秀忠の乳母となり、「初台の局」と呼ばれました。

このあたりは、初台の局が天正19(1591)年、当時の代々木村に二百石の知行地として賜ったところで、晩年ここに隠居したことから、地名が「初台」になったといわれています。

広尾(ひろお)

昔はツクシが生えていて、「土筆ヶ原」といいましたが、その後「広野」となり、元禄検地(1688年〜1703年)のころから「広尾」と呼ばれるようになったそうです。

代々木(よよぎ)

戦国時代の書状に、「代々木村」の名がすでにあり、江戸時代には大名・旗本の屋敷地がありました。
この名は、村人が代々サイカチの木(豆科の落葉高木)を生産したことにちなんでいるという説があります。

また、現在の明治神宮御苑の東門近くに、「代々木の大樅」といわれたモミの木があり、その名が由来ともいわれます。
現在は残っていませんが、井伊家 の下屋敷があったころの大樅は、当時の記録に残るほど大きなものでした。
黒船が江戸湾を測量していたころ、その動静をこの木の上から見張らせ、桜田門外の 上屋敷に報告させたそうです。

代々木神園(よよぎかみぞの)

昭和45年に、以前の神園町、代々木深町などいくつかの町が合併してできた町です。
北半分は明治神宮で、その地域にふさわしい町名になりました。

江戸初期には、熊本の加藤忠広の別邸があり、今も清正の井が残るなど、父清正にちなむ伝説が残っています。
その後彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新を迎えました。

明治7年、宮内省の御領地となり、病身の昭憲皇太后がしばしば保養のために利用したそうです。
そのゆかりで明治神宮が造営されました。

渋谷区は、武蔵野台地の東部にある淀橋台地に位置しています。
淀橋台地は、北を神田川に、南を目黒川にはさまれた、標高30〜60メートルの台地です。

渋谷区の中央には、渋谷川によってできた開析谷とその支谷がシカの角のように西方へのびています。
それを取りまいて、東に東渋谷、北東に千駄ヶ谷、北に代々木・幡ヶ谷、西に駒場・西渋谷の台地があります。